近江路歴史探訪

近江ゆかりの武将紹介

近江に生まれ、近江を想い、近江を愛した-。そんな歴史人を紹介します

近江に生まれ、近江を想い、近江を愛した-。そんな歴史人を紹介します

ここでは、近江路歴史探訪にて取り上げている、さまざまな歴史武将をご紹介いたします。

湖北・高島エリアゆかりの武将

柴田 勝家

織田家臣。通称権六、後に修理亮と称した。
その武勇から「かかれ柴田」「鬼柴田」「瓶割り柴田」などと恐れられた。
織田方の主な合戦にはほとんど参加し、ことごとく活躍した。
天正4年には北陸方面軍司令官となったが、本能寺の変後の清洲会議では秀吉との後継争いに負け、その後の賤ヶ岳の合戦にも敗れ、北ノ庄城にて妻・お市の方と共に自害した。

柴田氏家紋【丸に二つ雁金】

雁(がん)は、昔から「幸せを呼ぶ鳥」として知られている。
雁紋を用いた武家としては、古代の豪族である滋野氏から出た信濃の海野氏、同じく信濃に勢力を培った清和源氏頼季流の 井上・赤井氏らが有名である。
柴田氏のお膝元であった越前地方では、今も空を飛ぶ二羽の雁を見かけると、「勝家とお市の方が戻ってきた」と偲ぶという。

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加藤 清正

豊臣家臣。秀吉が長浜城主となった頃に小姓として召抱えられた。秀吉とは遠い親戚であり、大変にかわいがられたという。
賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、片桐且元などとともに功名をあげた「賤ヶ岳の七本槍」として数えられ、秀吉子飼いの武将として重用された。賤ヶ岳での功から三千石を、九州平定においては北肥後十九万五千石を拝し、熊本城を本拠とした。
文禄・慶長の役では二番隊主将として満州まで攻め入ったが最終的に撤退。日本に初めてセロリを持ち込んだのも彼である。
秀吉の死後には徳川家康に接近、福島正則や黒田長政など七将による石田三成暗殺未遂事件などを起こすなどしている。
関ヶ原の戦いの際には九州にて西軍諸将を撃破、最終的に肥後国五十二万石の大大名となった。

加藤氏家紋【蛇の目】

清正は主に、合戦では「蛇の目」、慶事などでは「桔梗紋」を使用していた。
蛇の目は文字通り、「ヘビの目」を意味しており、ある意味呪符のような意味合いもあった。
細川、戸田、石川、京極の諸大名も蛇の目の紋を使用しているなど、強さを象徴する家紋でもあったようだ。

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京極氏

宇多天皇から続く名家、佐々木氏から枝分かれしたひとつが京極氏である。
鎌倉期には幕府の評定衆を務め、その中でも京極高氏(道誉)は朝廷において検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務める重鎮であった。その後足利尊氏につき、その勲功により室町幕府では引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の6カ国の守護を務めることとなった。
戦国期においては、江北・浅井氏の傀儡となり、その後追放されてしまったが、京極高次が羽柴秀吉の九州征伐で功を上げ大名に返り咲いた。関ヶ原においては大津城で西軍15,000を相手に激しい篭城戦を行い、その功から若狭を与えられ、その後の小浜藩の基礎を作った。

京極氏家紋【四つ目結】

近江源氏、佐々木氏が用いた家紋で、佐々木氏から四家に分かれた後も基本的なデザインはそのままで用いられた。
目結紋はさまざまなバリエーションがあり、三つ目結(飯田氏、二松氏)から十六目結(本間氏)まで多岐に渡る。

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大谷 吉継

永禄年間に近江に生まれ、羽柴秀吉の小姓となり、播磨攻略や高松攻めに馬廻りとして参陣。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝豊への調略など、七本槍に匹敵する「三振の太刀」として賞賛された。
その後秀吉が関白に叙任されると、吉継も従五位下、刑部少輔に叙任され、「大谷刑部」と呼ばれるようになった。この頃越前国敦賀郡二万余石の大名となる。
秀吉死後は徳川家康に近づくも、関ヶ原の合戦の際には、石田三成との友情を重んじ、東軍勝利の予想をしていたにもかかわらず、西軍に馳せ参じた。
合戦では藤堂高虎や京極高知、そして東軍に寝返った小早川秀秋と圧倒的な戦力差でありながら退けていたが、諸将の裏切りにより三方から挟撃され、自害した。
晩年は業病を患い、白頭巾をかぶっていたとされる。

大谷家家紋【対い蝶】

蝶紋は、平安時代に平氏が使用し、その代表紋となった。
その後は桓武平氏を祖と称する公家や、伊勢平氏の流れをくむ武家(関氏、伊勢氏など)が使用していた。
かの織田信長も、室町幕府(源氏)に対して平氏の末裔として蝶紋を使用していた時期があった。
大谷吉継は、刑部少輔に任ぜられた後からこの紋を使用している。

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彦根エリアゆかりの武将

石田 三成

近江国坂田郡石田村(現:長浜市石田町)にて出生。父、兄と共に豊臣秀吉に仕官し、小姓として仕える。
その才は文武双方に長け、賤ヶ岳の戦いにおける諜報活動や先駆衆としての活躍や、九州平定における後方支援、各地での検地や諸将の秀吉への取次ぎなど、さまざまな方面で活躍した。
秀吉死後は豊臣家を盛り立てるため五奉行のひとりとして奔走するが、次第に徳川家康の台頭を許す。七将による襲撃事件に遭うが、すんでのところで脱出、事なきを得た。
豊臣家を脅かす徳川家康を排除しようと関ヶ原にて決戦を挑み、善戦むなしく敗北。再起を図ったが近江古橋で捕らえられ、六条河原にて斬首となった。享年四十一。

石田家家紋【大一大万大吉】

石田氏の代表的な家紋は「並び矢」である。
石田三成の代になり、好んで用いたのが「大一大万大吉」の紋。大一大万大吉は一を「勝つ」と読み、万は「よろず」、即ち万年の繁栄、縁起の良い吉にさらに大を冠した大変めでたい物で幸福を願った文字紋とされている。
この紋は石田三成が使用したことで有名となったが、もともとは木曽義仲を射落した石田為久という武将が使用しており、山内氏や五味氏もこの紋を使用していた。

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東近江エリアゆかりの武将

織田 信長

尾張の虎、織田信秀嫡男。
大うつけとして振舞った少年時代を経て、尾張統一、その後東海一の弓取りといわれた今川義元を桶狭間で討ち取り、岐阜において天下布武の道を歩み始める。
その後は着実に支配を広げ、その覇道の象徴を、近江・安土山に定めた。
だがその道半ば、明智光秀に裏切られ、本能寺にて散る。

織田家家紋【織田瓜】

家紋の中では藤紋、片喰紋、鷹の羽紋、桐紋とともに五大紋のひとつとされ、卵の入った鳥の巣の様子に似ていることから、子孫繁栄を意味する家紋として使用された。
織田家家紋は所謂「五瓜」に分類され、木瓜紋には「木瓜」「五瓜」「六瓜」などがある。

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豊臣 秀次

豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。
はじめは宮部継潤へ人質として送られ、その後養子となって宮部吉継と名乗り、その後は三好康長の養子となって三好信吉と名乗った。
その後秀吉が天下人としての地位を確立すると、羽柴姓に復姓し、その後秀次と名乗った。
秀吉による四国平定がなった後、国替えによって近江5郡、43万石の大名となり、八幡山城を築いた。
二代目の関白に叙任され、秀吉の後継者と目されていたが、秀頼が生まれたことによりその立場は危うくなり、突然の謀反の疑いにより高野山に蟄居となり、その後自害した。

豊臣氏家紋【五七の桐】

豊臣とは、「氏」のひとつである。
秀吉は、もとは織田信長を真似て、平氏を名乗っていた。だが関白は藤原氏しかなることができず、前関白近衛前久の猶子となって源氏に改めた。その後名乗ったのが「豊臣」氏である。
この豊臣氏を、秀吉はあらゆる者に与えていった。さながら日本全国が「豊臣氏」になる勢いだ。徳川家康や大谷吉継も当時豊臣氏を名乗っていた。

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六角氏

近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つである。六角氏の名の由来は、京都六角東洞院の六角堂に屋敷を構えたからと言われている。鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配した。
室町幕府では京極氏が任ぜられていた近江守護を、六角氏頼からは六角氏が近江守護を担当することとなった。
六角定頼は足利将軍家の管領代となり、南近江に一大勢力を築くこととなる。その影響力は伊賀、伊勢にまでとどろき、六角氏は絶頂期を迎える。
六角義賢の代になると、浅井、織田、斎藤、三好などと争い、最終的には信長の上洛軍に観音寺城を奪われ、大名としての六角家は滅亡した。

六角氏家紋【隅立て四つ目】

近江源氏、佐々木氏が用いた家紋で、佐々木氏から四家に分かれた後も基本的なデザインはそのままで用いられた。
目結紋はさまざまなバリエーションがあり、三つ目結(飯田氏、二松氏)から十六目結(本間氏)まで多岐に渡る。

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望月出雲守

望月氏は、もともとは信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家であり、そこから別れたのが「甲賀望月氏」である。
平安時代に平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家が朝命により近江国甲賀郡主となったのが甲賀望月氏の祖であるといわれている。
その後信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団を作り上げ、戦国時代には甲賀忍者の集団である「甲賀五十三家」の筆頭格となった。
因みに、歩き巫女の頭領として有名な望月千代女は、甲賀望月氏から信濃の望月氏へ嫁ぎ、武田信玄の命によって「くのいち」となった。

望月氏家紋【九曜】

インド占星術によって使われている、9つの天体を神格化したものが「九曜」であり、中国を経由して日本に取り入れられた。
その呼び名は現在の「曜日(七曜)」にも取り入れられており、北斗七星の「七」もまた「七曜」である。

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明智 光秀

足利氏、朝倉氏、斎藤氏などに仕えたといわれ、最終的に織田信長に見出されて織田家臣となる。武官としての才も秀でており、金ヶ崎の戦いでは殿を務めるなどしている。
元亀2年には比叡山焼き討ちで功を上げて、近江国滋賀郡5万石を拝する。その後も高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅を経て、石山本願寺、雑賀攻めにも従軍。天正7年には丹波を攻略する。
落ちぶれていた自分を取り立て、多数の家臣をつけてくれた信長を半ば崇拝し、床の間に信長直筆の書を飾るほどであったが、天正10年、戦国最大のクーデターといわれる本能寺の変を起こす。
その後は朝廷工作や調略を行ったがうまく行かず、また秀吉の中国大返しにより十分な対応ができぬまま山崎の戦いを挑み、敗北。落ち延びる途中で死亡した。

明智家家紋【桔梗】

桔梗は秋の七草のひとつであり、また別名をオカトトキといい、土岐氏の本拠である「土岐」の地名の由来は、この「オカトトキ」から由来しているとも言われている。
土岐氏の流れをくむ一族がこの桔梗紋を使用し、土岐氏の末裔である明智家もこの紋を使用した。

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